魔女は自由に生きることにした。

隠すことをやめた魔女が書きたいことを書くだけのブログ。

楸水花という魔女について。

 魔女。そう自称してはいるが、正式には私は魔女ではないのかもしれない。何故かというと、私は魔術儀式や伝統的なサバトを行わないし、女神や男神を信仰していないし、そもそも魔女の宗派に属したりイニシエーションを受けた訳ではないからだ。

 ではなぜ、自分が魔女だと言っているのか。それは、色々調べた中で魔女と言うのが一番『自由度が高くてしっくりくる』からである。

 

 霊能者を名乗るほどのすごい能力がある訳ではなく、30代後半に突入した現在は霊感があるというには視える視えないにとてもムラがあり(二十代後半まではよく視えてたけど、そもそも視たくないので滅多にチャンネルを死者へは切り替えなくなった)、精霊を感じたり視たり聴いたりすることに振り切ろうと基本的に修行もそちらへシフトしている。

 便宜上『精霊』と表記しているが、私の中でこれは大きな括りのジャンル名だ。死者以外の霊的な存在・ある程度の意思を持つ自然に属するエネルギーの塊を、言葉で表現する上で分かりやすく『精霊』と銘打つことにした。

 特に分かりやすいのは石に宿る精霊だろうか。石というのは記憶媒体なので、エネルギーを内包する性質がある。だからアミュレット(お守り)を作りやすいし、悪いエネルギーを吸わせたり浄化させたり、エネルギーを蓄えさせたり、封印したりもする。自然やら何やらのエネルギーが蓄積されて、そこに意思が宿るとそれが精霊と成るわけだ。(どうでもいい話だが、石を個別の精霊の家に使うのは割とポピュラー……のハズ)

 

 そんな精霊たちと暮らしながらハーブティーを体調に合わせてブレンドして飲んだり、石の精霊を育てたり、家族や友人にアミュレットとして作ったパワーストーンのブレスレットなどを贈ったり、タロットカードやペンデュラムなどで占いをしたり、そばにいる精霊たちと過ごす日々をかれこれ20年ほど送っていて、ある日ふと「あれ、私、魔女じゃね?」と西洋占星術や薬草や魔女の本を読んでいて思ったのである。

 ちょっと好奇心をくすぐられたので、伝統的なサバト(魔女の祝祭の儀式)とエスバット(それ以外の儀式)をしてみたり、祈りの文言を唱えてみたり、色んなことをしてみて分かったことがある。

 

 私に儀式は向いていない。

 本当にこれ、私には向いていないのだ。自分の中であまりにも非効率なことが多過ぎて、しかも精霊たちの訝しむ顔と空気感が居た堪れない。

 きちんとした手順で儀式を行うのは、ちゃんと信仰する神様がいて、その神様に礼儀を尽くすということだし、自分を集中させて盛り上げる為でもあるんだなぁとしみじみ思う。

 私には信仰している特定の神様というのはいないし(神社仏閣は空気が好きだけどそれだけ)、神を名乗る存在から啓示を受けてもいないし(現れたら疑心で塩対応になると思う)、お祈りは小さい頃の習慣でたまにするけど神に祈っているわけではないし(どちらかというと瞑想に近い)、そもそも私の中では神も精霊というジャンルに含まれているのである。『神』というのは『役職名』と言えば分かりやすいだろうか。

 ゴーストorスピリット。私の中での大きな括りはそれだ。これは師匠からの教えが根底にあるのだと思う。

 ただ、魔女のサバト二十四節気などと重なる部分もあるので、区切りとして普通に精霊たちへ感謝の気持ちや花などを贈る祝祭日として自分に落とし込んだ。太陽の暦、月の暦、星の力を生活の参考にする。そうやって自分の魔女習慣をつくっていくのはとても楽しいことだと感じている。

 

 なんだか色々話したが、そろそろ面倒になってきたので私の説明はここまでとする。

 『私は魔女っぽいことをしている人』『精霊と暮らしている』『精霊=意思を持つエネルギーの塊、霊的な存在』『霊能者や占い師ではない』これだけ押さえてくれれば十分だと思う。

 

 このブログは、そんな人間の頭の中で考えていることを言語化して記録しておくための場所である。